
【質問(コメント)5】 今回の説明は、基本的に、すでにある建築空間の見方に関するものであった。タイトルの「いま、建築から空間を考える意味とは?」はどう関係するのか?
【回答】 今回の説明では、具体的な建築空間の捉え方に納得感を持ってもらうことを重視し、タイトルで示唆した現代の問題まで話すことができなかった。なお、説明で納得してもらいたかったことは、主に以下の2点である。
(1)空間とは、物(環境条件)、ふるまい者(何か)、解釈者(誰か)の三者関係である。
(2)人類は、建築(身の回りの環境構築)の歴史のなかで、「異質なふるまい者の共存、またはそれとの距離感が捉えられる(解釈される)空間」すなわち「混成空間」の表現を追求してきた。
このことを踏まえて、いま筆者が指摘したい問題は、現代ではある深刻な「空間の分裂」が起こっているのではないか、ということである。その分裂とは「均質空間」と「没入空間」の分裂である。
説明のなかでも述べたが、「混成空間」の表現は、歴史的には権力(為政者、宗教など)が人々を動かすことを目的として発展した面が大きい。そう考えると、近代以降に広まった「均質空間」の概念、すなわち「特定のふるまい者を前提としない、どこでも同じ『平等な』空間」は、それ以前の権威的空間を打ち壊そうとする意欲の現れだったと考えることができる。
しかし、それからさらに一世紀を経た現在では、「均質空間」が「常識」となった一方で、人間がはるか昔から持つ「混成空間」に対する欲望(異質な何者かの動きを捉えようとする欲望)は「画面」に吸収されてしまったのではないだろうか? つまり、現代では空間表現の最先端は画面(コンピュータ、スマートフォン、スマートグラスなどのスクリーン)のなかに移り、建築を含む実体的空間は、物がうまく配置されればよい「均質空間」だと信じられているのではないだろうか?
「均質空間(どこでも同じ空間)」と「没入空間(主に画面の空間)」がなぜ問題だと思うかというと、それらがいずれも「管理しやすい空間」、つまり「見えない権力が人々を動かすのに都合がよい空間」だと思うからである。たとえば、権威を打ち壊すものであった「均質空間」は、現代では、あらゆる物が「平等に」数値(位置と価値)で評価される「ランキング空間」になっている。一方、(筆者も含めて)多くの人が暇さえあれば探索している「画面の空間」は、すべて機械が媒介している空間である。
「均質空間」と「没入空間(画面の空間)」は、分裂していることによって、より管理(人々の誘導)がしやすくなると思われる。このような空間は、建築のような「古い」空間(人類が数万年にわたって経験・探究してきた空間)と比較すると、かなり様相が異なるものだと指摘したい。この問題についても継続して考えたい。
【質問(コメント)6】 物理的に離れた位置にあるフレーム(線)が組み合わさって見えることで「むこう」を示すことがある、という指摘は面白い。いろんな建築の魅力を伝える方法として、そのように実際に見えているものを説明することは有効ではないか。

【回答】 コメントいただいた複合フレーミングに限らず、「むこう」の空間が見えた後に、移動してその変移を味えることは、多くの建物の魅力の一つであり、実際、建築家が模型やパースなどを使ってよく検討するところだと思う。
しかし一方で、建築家がそれを説明することには難しい面があると思う。本書のあとがきでも書いたが、建築家にとって、そのような空間デザインは「感じさせるべきもの」であって「語るべきもの」ではない。つまり、それは「説明できない魅力」であってほしいものであり、それについて語ることはネタバレとも言える。また、観察者が感じるもの(感じないかもしれないもの)を建築家が語ることには「はずかしい」という感覚もあると思う。
そのような「仕組み」を本書でわざわざ説明しているのは、それによって観察者(受け手)が自身の感じている(見ている)ものについて納得できたら、より主体的に楽しんでもらえるのではないかと思うからである。一方、建築家(作り手)の方には、改めて「仕組み」を見直すことによって(このように体系化されたものは無いと思うので)、うまく使ってもらえればと思っている。
ただし、このような「仕組み」について、建築教育の場面では語られる必要があると筆者は考える。筆者自身の経験から、学生に「空間」について教えないまま、設計課題案を「これは良い」「これは駄目」「わかるだろ(わからないならしようがない)」と講評することには抵抗を感じる。
【質問(コメント)7】 既存建物の改修手法として、20世紀には、古い要素と新しい要素を明確に分けるという倫理観が求められるようになり(1964 ヴェネツィア憲章など)、実際、新旧要素を対比する手法が一般的となった。スカルパの手法は、それ以前の「自由な」改修の魅力を併せ持っているように思われる。
【回答】 古い要素と新しい要素が渾然一体となっているように感じられることは、スカルパによる改修作品の大きな魅力で、まさにその通りだと思う。しかし一方で、その手法は、19世紀までのような「自由な(推測に基づいた)」改修とも違い、実は20世紀以降の価値観も併せ持っているところが特徴的だと思う。そのようなスカルパの両面的な姿勢を示すものとして、以下の文章を紹介したい。これは、カステルヴェッキオ美術館の改修設計に関連してスカルパが述べているものである。
オリジナルの部分があれば、それを保存しなければなりません。それ以外の介入は、新しい方法でデザインし、考えなければなりません。しかし「私は現代的だから、金属とガラスを使う」などと言うことはできません。木材の方が適しているかもしれないし、もっと控えめなものの方がいいかもしれない。もし教育を受けていなかったら、どうして確かな主張ができるでしょうか? フォスコロが言うように「歴史について」の教育、すなわち幅広い知識をともなった教育を受けていなかったら。過去のものについての教育を受けていないとしたら。
1978年にマドリッドで行われたスカルパのレクチャーより。
Carlo Scarpa, “A thousand cypresses,” in Carlo Scarpa: Complete Works, Francesco Dal Co and Guiseppe Mazzariol (ed.), Rizzoli, 1985, pp.286-287.

【質問(コメント)8】 今日のスライドでの説明や、本における具体的な建築経験の説明は理解できる。一方、第1章の「空間の定義(三者関係)」はめずらしいものだと思われ、まだ腑に落ちないところがある。
【回答】 実は、本の第2章、第4章のスカルパ作品とヴェネツィアの分析が最初に出来上がっていた部分で(博士論文、2013)、その後、その一般的な可能性を考えるなかで第1章(建築史)と第3章(理論史)の内容が加わった、という経緯がある。なかでも「空間の定義」は、「建築空間論」(2020-24)という講義を行っていたときに思い至ったもので、講義では最終回に「結論(まとめ)」として提示していた。それほど「空間の定義」などということを気軽には言えないと思っていたからである。
しかし本書では、その「空間の定義」を最初に提示した。それは、まず「結論」を頭に入れてもらった上で、それを例証するように具体例を示していった方が、趣旨がわからなくならないのではないか、と考えたからである。
以上のような経緯から考えても、たしかに、抽象度の高い「空間の定義」を意識しなくとも、具体的な建築に見られる「空間の仕組み」は理解できると思う。しかし、あらためて、なぜ本書では「空間の定義」を先に示したかったのかと考えると、その後に示した建築空間史を、混成空間の表現史として捉えてほしかった、ということがある。
混成空間とは、先にも述べたように、異質なふるまい者との共存または距離感を捉えることができる空間である。異質なふるまい者には、神殿・教会・寺社などにおける神秘的な存在や、封建社会における高貴な者のほか、内部の秩序に対する外部の野生、自然、などが典型的には想定される。
建築空間の歴史を混成空間の表現史として捉えるというのは、単なる形や位置の変遷史として捉えない、ということである。たとえば「神秘的なもののための空間」と「人間のための空間」は、単に上下や前後に並べられた(現代の感覚で言えば「均質空間に配置された」)のではなく、それによって捉えられる距離感(異質なものとの関係)こそが重要だったと考えなければ、空間デザインを理解することは難しい。
このような混成空間を理解してもらうために、建築空間を「物(A)、ふるまい者(B)、解釈者(C)の三者関係」として考えてもらうことが必要ではないか、と考えた。つまり「空間を捉えることは、解釈者(C)自身が動きうる範囲と、異なるふるまい者(B)が動きうる範囲の関係を気にする(警戒する、味わう)ことだ」と気づいてもらう必要があると考えた。
なお、先に述べた「画面の空間」は、解釈者自身が動く空間と「画面」で仕切られているため、混成空間になりにくい(だからホラー映画も安心して見ることができる)という特徴がある。
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