絵画に見る、ルネサンスとバロックの「空間」の違い

 

『物と経験のあいだ——カルロ・スカルパの建築空間から』では、現代の空間を考える手がかりとして、過去の建築(西洋建築と日本建築)に見られる空間や、ここ100年あまりのあいだに登場した空間に関連する理論も取り上げています。

空間に関連する理論のなかには建築と絵画を対照して論じているものがあり、本書でも紹介していますが、図版がモノクロでしたので、ここにそのカラー版を載せたいと思います。

これらの図版は、美術史家のハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)が『美術史の基礎概念』(1915)で述べている、ルネサンス(15〜16世紀頃)とバロック(16〜17世紀頃)のあいだで生じた変化を示すためのものです。

 

【図版1】[左]レンブラントの自画像(1642)[右]デューラーの自画像(1498) 本書では266頁に掲載。なお、これらの絵はヴェルフリンの著書に掲載されていたものではなく、筆者(木内)が選んだものである。

 

上の【図版1】(2枚セット)に関連して、ヴェルフリンは次のように述べています。

 〔ルネサンスの〕デューラーの芸術と〔バロックの〕レンブラントの芸術のちがいを、最も一般的な言葉で表わそうとする時、デューラーは線画的であり、レンブラントは絵画的である、と人は言う。

 

「線画的」とは輪郭線が明確に描かれる形式であるのに対し、「絵画的」は形の輪郭が明確でなく、画面全体の明暗や色彩の効果がより重視される形式です。ヴェルフリンは、このような表現形式の違いが、画家の個人的な問題ではなく、絵画に限定される問題でもなく、ルネサンスとバロックのあいだの根本的に異なる視覚のあり方、二つの世界観であり、それが建築にも現れていると述べています。

この「線画的(彫塑的)」から「絵画的」への移行は、「触覚価値から視覚価値へ」の転換とも言われます(ヴェルフリン 前掲書、96頁)。詳しくは本書を読んでいただければと思いますが、この転換は、環境(周囲)にある空間を捉える人間の立場で考えると、「環境にあるものが何であるか(形や規則)を明確に表現しようとする」ものから、「環境にあるものがどのように見えているか(感覚や現象)を効果的に表現しようとする」ものへの変化であり、この頃に人間の環境に対する態度が根本的に変化したことを示唆しています。

 

【図版2】[左]Woman Lacing Her Bodice Beside a Cradle(ホーホ、1661-63頃)[右]カール五世の肖像(ティツィアーノ、1548) 本書では339頁に掲載。

 

次の【図版2】のセットも、ヴェルフリンがルネサンスとバロックの違いを示すために挙げているものですが、ここでは色彩に注目しています。

クラシック美術〔ルネサンス〕の原理によれば、色彩は形に従うものである〔……〕やがて人はそれらのアクセントをいくらか移動させることに快感を見いだした。〔……〕色彩が対象的なものを明瞭化し説明するという義務から原則的に解放された時に初めて、ほんとうのバロックが始まるのである。

16世紀にティツィアーノが描いた右の肖像画では、床の赤色は、カーペットという対象やその素材感を見る人に説明するのに対し、17世紀にホーホが描いた左の絵では、やはり赤色が、座っている女性の服、女性が手を伸ばしているゆりかごの中、そして女性のうしろの壁ぎわに掛けられた大きな布にも用いられており、それぞれの対象とは別に、赤という目立つ色のグループが捉えられます。つまり、前者の赤は、対象が「何であるか」を明瞭に示す「触覚的」表現であるのに対し、後者には、赤色自体が「どのように感じられるか」が問われる「視覚的」表現が現れています。言いかえると、後者のバロックの表現では、「色」は「対象」に従属するのではなく、重なり合っています。このような色の「解放」が、その後、印象派やフォービズムなどの現代絵画につながっていくことは言うまでもないでしょう。また、このように色や素材がレイヤーとして対象の構成に重なる表現はバロック建築(とくにロココ)の特徴でもあり、その手法も現代までつながっています。

 

【図版3】[左]アトリエの画家(フェルメール、1666頃)[右]ブリオン家墓地(スカルパ、1978) 本書では269頁に掲載。

 

最後の【図版3】のセットは、左はバロック時代のフェルメールの絵画、右はスカルパ設計のブリオン家墓地の入口部分です。バロックから始まった「絵画的」表現の特徴のひとつに、「重切(じゅうせつ)」と呼ばれるものがあります。重切とは、ある観察者から見たときに奥の物が手前の物によって一部遮蔽されている状態、つまり、物の一部が隠れて見えない状態のことです。それは現実では普通のことですが、それが表現として追求され始めるのはバロックの頃からです。

空間の見通しが絵画的になるのは、個々の部屋の建築的な品質によるのではなく、見る者の眼に映る映像つまり視覚像によるのである。いかなる重切も、重なる形と重ねられる形から生じる映像によって起こる。個々の形はそれ自体手で探られるが、それらの形の前後関係から生じる映像は、見ることだけができるものである。

バロックは重切を好む。バロックは形の前に形を見、重切されるものの前に重切するものを見るだけでなく、重切から生じる新しい構成を楽しむのである。それゆえ、視点の選択によって重切を起こすことは、見る者の好みにまかされるだけではない。重切は不可避的なものとして、すでに建築の設計図の中に取り入れられているのである。〔……〕人が歩き回るのは、むしろ重切の際には次々に新しい映像が生起するからである。

このような現象が、フェルメールの絵にもスカルパの建築にも取り入れられていることがわかるでしょうか。本書では、重切がスカルパ建築に印象的に見られることとともに、コーリン・ロウがル・コルビュジェの作品を例に「現代建築の特質」として示した「虚の透明性(現象的な透明性)」にも関係していることを論じています。