スカルパ空間論_4:「時間がデザインできる」根拠(試論)

前のスカルパ空間論_3では、論文の概要をつかみやすくすることを目的に、「空間変移」と〈空間変移のデザインパターン一覧〉(表1.1)の意味について述べました。

簡単にまとめますと、まず〈包囲空間(なか)〉〈周辺空間(まわり)〉〈開口空間(むこう)〉という3つの「空間図式」を提示した上で、「同じ」物によって示される、あるいは「同じ」場所に捉えられる空間が観察者の行動にともなってこれら三図式の間で変移することを「空間変移」と設定しました(本論21頁)。〈空間変移のデザインパターン一覧〉(表1.1)は、スカルパ作品に見られる空間変移デザインがパターンとして体系化できることを示したもので、観察者の「移動」によって空間変移が浮かび上がる[移動タイプ]と、要素の「並置」を観察者が捉えることによって空間変移が浮かび上がる[並置タイプ]の二系列にまとめられています。前項では、この二系列を《穴》と《群》のデザインと言いかえ、《穴》の構成要素である〈開口空間〉が《群》のデザインにも含まれることから、経験において《群》と《穴》は差異を持ったまま連続する、と述べました。

ここまでのところで、カルロ・スカルパの具体的な建築作品についての研究が、かなり概念的な話になってしまい、違和感を感じられている方もいるかもしれません。このような概念化の目的は、一見「バラバラな物」から「経験で感じる一貫性」が現れる理由をつかむことができれば、設計への応用が考えられるのではないかと思うからです。また、このように建築を読み解いて「物」と「概念」の直接的つながりを示すことは、建築学の伝統的な強みであり、責務でもある、という思いもあります。

以下では、さらに概念的なところに踏み込むことになりますが、「空間変移」と「時間」の関係について概念図を用いて少し考え、本論の意味を何とかわかりやすく示したいと思います。

下の図は、「物」「空間」「時間」という我々が持っている3つの基本概念の関係を、a.b.c.の3つのケースで表したものです。なおここでは、これら基本概念に関する膨大な哲学的議論はいったん脇におき、「常識」と思われるところから考えたいと思います(哲学的批判を受け付けないということではなく、脇におかなければ筆者には提案ができないというだけです)。

「物」と「時間」を媒介する「空間」

a は、単純に、『我々は「物」「空間」「時間」を、それぞれ認識できる』という「常識」を示しています。我々は、どのような建築経験においても「物」を認識できるし、「空間」を認識できるし、「時間」も認識できるだろう、ということです。

b は、本論文で主張している「空間図式」と「空間変移」を、a の「空間」の枠に入れたものです。スカルパ作品においては、〈包囲(なか)〉、〈周辺(まわり)〉、〈開口(むこう)〉という3つの空間図式を想定すると、それらの間の変移デザインが見えてくることを論文では示しました。つまり、スカルパ作品においては、「空間」は「空間図式とその変移」として現れると言えます。いわば、これが本論の結論です。

c は、b の枠を描きかえてその意味を明らかにしようとしたもので、ここでの提案になります。「物」から「時間」までを一つの枠で囲っていますが、これで示したいことは、「空間」を「空間図式 + 空間変移」に置き替えると、「物」と「空間図式」の密接なつながり(矢印①)、「空間変移」と「時間」の密接なつながり(矢印②)がそれぞれあることから、「空間(図式+変移)」を媒介とした「物」から「時間」までの一体的連続性が浮かび上がる、ということです。スカルパ作品では、この一体的連続性がデザインされている、あるいは、一体的連続性がデザイン可能であることが示されている、と言うことができると考えます(*1)。

ここで、2つの矢印で示した「密接なつながり」について考えます。 まず、矢印①で示す『「物」と「空間図式」の密接なつながり』については、そもそも「空間図式」を「人間が物を手掛かりにして環境を把握するための空間」(本論21頁)と設定していますので、問題は無いと思います。経験的に言えば、我々はたいていの場合(注意力が働いていれば)、「物」を捉えると同時に「空間図式」を捉え、運動の潜在的可能性(近づくか逃げるかなど)を計算しているだろうということです。 では、矢印②で示す『「空間変移」と「時間」の密接なつながり』はどうでしょうか?「空間変移」を捉えることは「時間」を捉えることだと言えるでしょうか? ここで、ベルクソンの「持続」の概念を少し参照したいと思います。

ベルクソンは、「物質を絶対的に輪郭の定まった独立的な諸物体に分けることは、すべて作為的分割である。… なぜ私たちは、あたかも万華鏡を回転したかのように全体が変わることを、そのまま端的にみとめないのであろうか」(*2)というように述べ、異質的に「全体が変わる」持続と、均質的で分割される空間を分離して考えました。「意識のうちに見いだすのは、互いに区別されることなく継起する諸状態である。また、空間のうちに見いだすのは、継起することはないが、後のものが現れるときは前のものはもはや存在しないという意味で、互いに区別される諸同時性である」(*3)「自由に行動するということは、自己を取り戻すことであり、純粋持続のなかに身を置き直すことなのである」(*4)

ここで主張したいことは、本論で用いている「空間変移」は、ベルクソンの言う「互いに区別されることなく継起する諸状態」、つまり「持続」のことではないか、ということです。すると、先の図で示した c の一体的連続性は、このような「空間変移」の存在によって「あたかも万華鏡を回転したかのように全体が変わること」を示していると思われます。

また、ベルクソンの哲学を引き継いでいることでも有名なドゥルーズは、「持続」の説明として次のように述べています。
「ベルクソンが持続について言うことはつねに次のことに帰する、つまり、持続とは、自己に対して差異を生ずるものである、… 物質とはこれと反対に、自己に対して差異を生ぜず、くり返されるものである」(*5)「空間は物質と持続とに分解され、しかし持続は凝縮と弛緩とに分化して、弛緩は物質の原理となる」(*6)
極めて抽象的ですが、やはり、同じ物が示す差異である「空間変移」は「持続」に相当し、それは「物」と「時間」を結びつける、言いかえると、「空間」は「物」と「時間」を連続させるように「空間図式」と「空間変移」に分化する、という 上図 c の仮説を裏付けているように思います。

たったこれだけの引用から「空間変移とは時間(持続)である、すなわち建築は時間(持続)をデザインできる」ということが暴論であるのは筆者も承知しています(*7)。ましてや、スカルパ作品の分析だけで、このような一般的なことが言えるのか? 論文ならば言えません。ここではあくまで試論として述べさせていただき、今後、検証に身を捧げたいと思います。正直に言いますと、このような概念的なことを検証するとしたならば、筆者の能力では、もういつ発表できるのか見当もつきません。ですから、これを仮説として立ち上げ、どうにかして使ってみる、あるいは、諸賢に批評していただくしかない、と考えています。

 

なおここで、本論文の記述に関して、一つ注を加えたいことがあります。筆者は本論の「研究の意義」(6頁)において、「カルロ・スカルパの作品は人々を魅了し、その理由を説明しようとする多くの研究や言説が存在する。それらの多くはもっともであるにもかかわらず、筆者自身の経験と照らし合わせたとき、何かが足りないような印象を拭えなかった。それは、それらの言説では一般にスカルパ建築の物と空間のあり方から経験的特質が述べられているが、それらがなぜ結びつくのかが自明とは思われなかったからである。本論で提示する「空間変移」は、そのような「物」と「空間」のデザインを結びつける仕組みと考えられるもので、スカルパ作品に関する諸解釈を結びつけ、理解を深める一助となることが期待できる」と述べていますが、振り返って考えると、「空間変移」が結びつけるのは「物」と「空間」ではなく、上図で示したように「物」と「持続」であると言う方が正確です。ではなぜ「物」と「空間」と記したかというと、「研究の背景」(6-15頁)のスカルパ作品に関する諸言説を見ていただけるとわかると思うのですが、建築家あるいは研究者が建築について語るとき、「持続(時間)」に近い意味で「空間」という言葉を使っていることが多いためです。それは、「持続」や「時間」という言葉が使いにくい(対象化しにくい)というだけでなく、「空間」という言葉のなかに既に「空間変移」的な動的意味合いを含ませて用いているためだろうと思われます。

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*1 密着なつながりを示す矢印が右向きなのは、この方向にデザインができるということを示しています。一方、左向きの方向性は、私たちが発達段階で身につける知覚や知能による環境の分化(常識化)ということができると思いますが、検証はしていません。以下などを参照。ジャン・ピアジェ『知能の心理学』波多野完治・滝沢武久役、みすず書房、1998年。

*2 アンリ・ベルクソン『物質と記憶』田島節夫訳、白水社、1965年、220頁。

*3 アンリ・ベルクソン『時間と自由』中村文朗訳、岩波文庫、2001年、270頁。

*4 同上 276頁。

*5 ジル・ドゥルーズ『差異について』平井啓之訳、青土社、2000年、40頁。

*6 同上 51頁。

*7 本論文では、第4章の展望において、中島義道と郡司ペキオ – 幸夫の時間論からも僅かに引用しています。特に郡司のテキストには、本サイトで述べている《群》と《穴》に相当すると思われる記述があり、慎重に考えたいと思っています。中島義道『「時間」を哲学する 過去はどこへ行ったのか』講談社〈現代新書〉、1996 年。郡司ペキオ-幸夫『時間の正体 デジャブ ・ 因 果論 ・ 量子論』講談社〈講談社選書メチエ〉、2008年。

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– スカルパ空間論_0 : WEB公開資料
– スカルパ空間論_1 : 研究の経緯
– スカルパ空間論_2 : WEB公開の目的・スカルパの「凄さ」
– スカルパ空間論_3 : 空間変移とは何か・空間変移パターンの二系列《群と穴》
– スカルパ空間論_4 : 「時間がデザインできる」根拠(試論)