【建築の力とは何だろう】3. 建築のテーマとしての「横断」— 自由でワクワクする経験を共有するために

「横断すること」の価値

前のページ(【建築の力とは何だろう】2. )で、「理論」は「工学」と「歴史」を横断した価値をめざしていると考えられる、と言いました。しかし、そもそも、なぜ「横断すること」に価値があると言えるのでしょうか?

「横断すること」に価値があるというのは、当たり前のことではありません。現実世界にさまざまな「横断」があるということは事実ですが、それにしても個別には「横断」から価値が生まれることもあれば、弊害が生じることもあります。

私は、「横断に価値がある」と言えるのは、「そのどちら側も失われずに行き来する自由が生まれるとき」だと考えています。たとえば「新しいもの」と「既存のもの」であれば、「横断」(たとえばリノベーション)によって「新しさがなくなる」のではなく、「既存のものが失われる」のでもなく、「混ざって均質化する」のでもなく、なおかつ「バラバラ」でもなく両者を行き来できる自由が表現されるとき、その「横断」には価値があると考えられる(*1)。

なぜこのように「横断」にこだわるかというと、『建築理論は「横断」の価値を示そうとしている』と思うことに加えて、『建築理論が「横断」を問題にするのは、じつは建築が「横断」を主要なテーマにしているからだ』と思うからです。そして、このことこそ、現代において建築学が社会に貢献できる最大の根拠だと考えます。

 

建築が横断している境界

『「横断」が建築の主要なテーマである』ということを説明するために、建築が具体的にどんな境界を横断していると言えるか、例をあげてみたいと思います。なお、ここでは全体的な把握を目的とするため、個別のくわしい説明は行いません(少しずつ補足していきたいと思っています)。

建築が「横断」を課題としていると考えられる境界を、便宜的に、
基本的境界][応用的境界][発展的境界][原理的境界]
の4つに分けてみます。

[建築の基本的境界]
(01)外部 と 内部
(02)パブリック と プライベート
(03)全体 と 部分
(04)大きいもの と 小さいもの
(05)俯瞰 と アイレベル
(06)機能 と 形

[建築の基本的境界]は、たとえば建築学科で設計製図の授業をはじめたときから問題とされるような境界です。

(01)外部 と 内部:ある建物や庭などに入ったり出たりすることは、建築の最も基本的な行為であり、外部と内部の境界をどう横断するかはいつも重要な課題となります。

(02)パブリック と プライベート:屋外、屋内にかかわらず、これをどこで分けるかも建築の基本的な課題です。たとえば住居集合を考えるとき、これらの間に「セミ・パブリック」や「コモン」といった領域を想定することも境界デザインの一つといえます。

(03)全体 と 部分:たとえば住居集合で、全体配置とそれぞれの住戸の詳細。そのあいだを行き来することは計画のときのみの問題でなく、日常的にどう経験されるかも重要です。

(04)大きいもの と 小さいもの:超高層のような大きい建築と住宅のような小さい建築の物理的関係ということもありますが、日常的な経験として、たとえば遠景で建物のシルエットや街並みをとらえ、近づくと開口部や家具などがとらえられるスケールの横断も建築の課題です。

(05)俯瞰 と アイレベル:(03)と重なるところもありますが、簡単にいうと、模型を上から見ることと横からパースペクティブ(透視図)的にのぞき込むことの違いです。これは建築の「理解」と「体験」の境界といえるかもしれませんが、これを行き来できることは建築の大きな魅力です。

(06)機能 と 形:「形態は機能にしたがう」(ルイス・サリヴァン)あるいは「したがわない」(たとえばレム・コールハースのマンハッタニズム)、どちらの考え方もありますが、いずれにしても建築では人々がそれらを経験するため、関係が問題となることに変わりはありません。

以上の[基本的境界]をみると、たしかにこれらが建築で問われるとしても、それらのあいだに明確な「境界線」など無いではないか、と思われるかもしれません。「外部と内部」や「パブリックとプライベート」の間には境界線が考えられるとしても、「機能と形」のあいだのどこに境界があるのかと。

たしかにその通りです。つまり、ここで問題にしている「境界」とは、物理的に設定された境界線ではなく、人々が解釈(把握)できる差異のことです。たとえば人は、一つの建物を「機能的」にとらえることも「形態的」にとらえることもできるということは、それらが切り替わる「境界」、いわば 時間的な境界 があることになります。だから、建築はその「横断」を考慮する必要がある、と考えます(よく考えると「外部と内部」「パブリックとプライベート」なども経験においては時間的な境界になります)。これを両者の「関係」といわずに「横断」と言いたい理由は、そのような「境界」は固定されるものではなく、人々が主体的に発見するべきものだと思うからです。

言いかえると、これは「機能と形の関係などどうでもいい」というならば消えてしまうような境界です。しかし、少なくともこれまでは、建築はこのような境界を「どうでもいい」とはしてきませんでした(「無関係でいい」と「どうでもいい」は違います)。それはなぜでしょうか? それは、このような差異、境界を発見(解釈)して主体的に行き来できることこそが人間の自由であるからだ、と私は考えます。これらの境界が「どうでもいい」ことになっている建築に、人は自由を感じたり、ワクワクしたりできるでしょうか。

次に、[建築の応用的境界]をあげます。これらは、やはり建築でよく問題にされるけれども、たとえば大学であれば4年生や大学院生以上が問題にするような、少しわかりにくいと思われる境界です。

[建築の応用的境界]
(07)技術 と 経験
(08)既存のもの と 新しいもの
(09)歴史主義 と 反歴史主義
(10)国際主義 と 地域主義
(11)合理主義 と 表現主義
(12)直線 と 曲線

(07)技術 と 経験:ここでいう技術は、原則的には構造、材料、環境設備など、建築を支える工学技術のことです。このような技術と経験の境界を行き来することが大切だということは、建築学科では繰り返し言われることでしょう。

(08)既存のもと と 新しいもの:すでに述べたことですが、この世に必ず存在する既存のものと新しいものの境界をどう行き来するかは、建築の主要な課題の一つです。

(09)歴史主義 と 反歴史主義:モダニズムはそれまでの歴史主義を断ち切り、ポストモダニズムはそれを復活させたという側面がありますが、そのような論争を経た現代の私たちは、すでに「どちらが正しいか」というより、「どう横断するか」が課題になるといえるでしょう。これは西洋建築に限ることではなく、たとえば日本らしさをどう表現するか、というときにも課題になるでしょう。

(10)国際主義 と 地域主義:これも建築史的な論争の時代は終わっているかもしれませんが、「グローバリズム」と「地域社会」の関係が問われざるをえない現代においては、かつて行なわれていた議論もふまえて現代的に「横断」を構想することが課題になっていると言えます。

(11)合理主義と表現主義:荒っぽく言うと、建築デザインの歴史は、合理主義(理屈に基づいたデザイン)と表現主義(感情表出的なデザイン)の交替あるいは相克の面をもっています(古典主義とバロック、モダニズムとドイツ表現主義、フォルマリズムとデコンのように)。このような歴史をもつ建築は、この対立を単なる「好み」と片づけるのではなく、人間的欲望の二傾向(理性と感覚のように)として、それらの横断を課題にしていると言えるでしょう。

(12)直線と曲線:ある建築において、なぜ直線を、あるいは曲線を使うのでしょうか。それは合理主義と表現主義、あるいは無機的建築と有機的建築の境界を示すものかもしれません。これも建築では、単に「それぞれの好み」とするのではなく、横断可能な異なる世界観と考えることができます。

これらの[応用的境界]は、すべてではありませんが、時代によっては「どちらが正統か」「倫理的か」といったことが議論されたり考えられたこと、ということができます。言いかえると、建築では伝統的にこれらの関係が考えられてきた、ということです。その歴史をふまえると、現代ではこれらを単なる「好み」や「主義」と片づけるのではなく、われわれが生きる世界に存在している差異ととらえ、それらのあいだを人々が主体的に行き来できることが課題となると言えるでしょう。

なお、誤解のないように付け加えると、ここで「差異」や「境界」を強調するのは、世界を二元論(二項対立)的にとらえることを推奨しているからではありません。二元論の問題とは、差異を横断不可能なものと考えることです(たとえば「物質と精神は関係がない」というように)。つまり、ここでの意図はその逆であり、「建築の課題は、よくない二元論を回避して人々が自由になることだ」と考えています。そのために建築は、「境界」を固定するのではなく、無いことにするのでもなく、人々が主体的に発見して行き来できるようにすることをめざしている、と思うわけです。言いかえると、建築は注意しなければ、「境界」を固定して強制したり、無いことにしていつのまにか差異を排除することもありうるということです。それも建築の力と言われるかもしれませんが、それではこれからの社会に期待されるものにはならないでしょう。

以上から、『建築の主要な課題は「横断」である』ということに少し納得できたとすると、次にあげる[建築の拡張的境界]も建築が考慮すべき課題である、と考えられるのではないでしょうか。簡単に説明します。

[建築の拡張的境界]
(13)人工 と 自然
(14)対象 と 環境
(15)個人 と 社会
(16)建築 と 都市
(17)アナログ と デジタル
(18)実体 と 概念

(13)人工 と 自然:建築では人工的なものと自然的なものの境界も常に問題になります。それはとくに素材や空気環境の問題などに特徴的ですが、よく考えると、この境界も明確なものではありません。しかし、明確でないから「どうでもいい」わけではなく、それをどう判断するか、問いつづけなければならない境界です。

(14)対象 と 環境:ここで考えたいのは「人間が取り扱う対象」と「人間を取り囲む環境」の境界です(発展的には主体を人間に限定する必要はありませんが)。これらはどう切り替わるのか、どう行き来するとよいか。特にそのスケール(大きさ)から、建築はまさに人間が取り扱う対象が環境にもなるものの典型であり、この境界を考えるうえで特に強みをもっています。

(15)個人 と 社会:この境界は、現代社会が直面している問題の一つといえるでしょう。かつて個人が属していた共同体や集団の境界が消えていく現代、私たちはどのように社会とつながり直すのか。どう行き来できることが望ましいのか。簡単に答えが出るものではなく、問い続けなければならない境界でしょう。

(16)建築 と 都市:この境界を議論しようとするのは建築分野だけかもしれませんが、言いたいことは、都市を人間が生活する場所として考えるならば、建築の経験とつながっているものとして考える必要があるだろうということです。境界は閉じることも開くこともできますが、いずれにしても横断の連続が都市の経験であるといえるのではないでしょうか。

以上の(13)から(16)は、(03)であげた「全体と部分」の拡張、あるいは「全体がとらえられない包含関係」といえるかもしれません。言いかえると、せまい意味での建築は「とりあえず全体がとらえられる」ところにモデルとしての価値があると言えるでしょう。

(17)アナログ と デジタル:言葉の厳密な定義ではなく、IT技術の普及によって浮かび上がる「実体的な経験と情報メディア的な経験」の境界という程度で考えます。この横断が、これからの生活において避けられない課題であることは明らかでしょう。

(18)実体 と 概念:「物と言葉」あるいは「具象と抽象」とも言えるかもしれませんが、いまこの境界をあげておきたい理由は、この「実体と概念」を完全に切り離せるかどうかが、AI(人工知能)の問題にもつながっていると思うからです。近い将来(あるいはすでに)、「実体をもたない概念」とつきあう可能性もある私たちは、この境界を日々行き来している私たち自身について見直しておく必要があるのではないでしょうか。「建築を理論化する」とはそういうことでもあるだろうと思います(*2)。

以上の[拡張的境界]は、これまで「横断」を課題としてきた建築が、これからの社会において課題とすべきだと思われる境界です。くり返しになりますが、建築は、これらの境界を固定するのではありません。たとえば「経験はアナログがよいか?デジタルがよいか?」と問うのではなく、「アナログとデジタルをどう行き来するのがよいか?」と考えます。また、これらの課題には建築だけで取り組むわけではなく、様々な他分野と協力する必要があることは言うまでもないでしょう。

最後に、[建築の原理的境界]をあげたいと思います。これらは、「なぜ建築は上であげたような境界の横断を構想できると言えるのか?」と考えたとき、その根拠になると思われる境界の仮説です。大げさに言うと、これらは建築のはじまりからある境界、これらの境界を環境のなかにつくるために(自然をまねて)建築が生み出された、とも考えられる境界だと思います(*3)。

[建築の原理的境界]
(19)「なか」と「まわり」
(20)「ここ」と「むこう」
(21)「一つ」と「多数」(連続と離散)

私は、とくにこれらの[原理的境界]の横断に「空間」の概念が関わっていると考えているのですが、その説明はあらためて行ないたいと思います。ここで仮説として言っておきたいのは、建築はこれらの[原理的境界]をずっと扱ってきたため、上であげたようなさまざまな境界の構想にも強みをもっているだろう、ということです(*4)。

 

 

さまざまな境界を横断する建築 = さまざまな異なるものを共存させる建築

長々と『建築の主要なテーマは「横断」である』ということを説明しようとしてきましたが、これを別の言い方で述べると、『建築は、さまざまな異なるもの(差異)を共存させる仕組み(場所、装置)と考えられる』ということになります。「異なるもの」をとらえるのは誰かというと、私たち人間です(いまのところは)。そして、それらを建築的に「横断する」ということは、ただその違いを外から認識するということではなく、私たち自身がそこ(空間)に入り込むことによって起こる一回きりの変化として経験する、ということだと思います。建築は、そのような経験を可能にする技能です。そして、そのような経験を、できるだけ自由でワクワクするものとして共有できるようにすることが、建築の主要なテーマであると私は信じています。

非常にえらそうなことを言っていますが、このようなことが、私が学んできた建築学だと思っています。ここでの提案は、このような建築学を単に延命させようということではなく、変わりつづける社会のなかでその力を発揮できるように考えよう、ということです。

 

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*1 このように、一つの認識領域にとどまらずに自由な「横断」をうながす考え方が、原広司のいう〈非ず非ず〉ではないかと考えています。『T_ADS TEXTS01 これからの建築理論』(東京大学出版会、2014年)133頁。

*2 【建築の力とは何だろう】1. なぜ建築を伝える「言葉」が大切なのか で、少し関連することを述べています。

*3 香山壽夫は、列柱を「支えモティフ」と「囲いモティフ」の最初の統合と解釈し「いついかなる建築においても強い表象力をもつ」と述べています(『建築意匠講義』東京大学出版会、1996 年、163 頁)が、このような強力な建築的発明といえる列柱に、[建築の原理的境界]としてあげた3つの境界が典型的に示されています。

*4 このような[原理的境界]の根拠となるのが、カルロ・スカルパの建築作品で確認した「空間図式」と「空間変移」であり、その意味と可能性をわかりやすく示さなければならないと思っています。興味のある方は、本サイト内の【スカルパ空間論】をご覧ください。